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2011年6月16日木曜日

オルタナティヴ・ストーリーを語れ

 
いま,「仮題」としか題名が付されていない本を作っている。一昨年~昨年に行った高橋規子先生と八巻秀先生のワークショップをもとにした本の校正刷を読んでいるのであるが,まあ,はっきり言って面白い。もちろん,宣伝を狙った出版社のブログであるからして,「面白くない」なんて言わないけれど,この本はすごい。さまざまに分派しているナラティヴ・アプローチについて,しかも,その実践について,詳しく語ったものは,ほかにないだろうと思う。そして新しく提示されるアイデアの数々。タカハシ先生,すげえよ。ほんと,すごい。

で,オルタナティヴ・ストーリーである。さまざまな実践のあるなかで,ナラティヴ・アプローチのホワイトの考えは,革新的である。キーワード先行型のところもあるので,テクニカルな意味に消化されてしまっている現実もあるが,ホワイトの革新的なすごさに「オルタナティヴ・ストーリー」と「ドミナント・ストーリー」というのがある。オルタナティヴというのは,「もう一つの」とかいう意味であり,「ドミナント」はなかなかいい訳はないが,「支配的な」くらいな意味だろうか。で,クライエントは,このドミナントなるストーリーを生きているというのである。たとえば,クライエントが離婚したいと思っても,まわりが「離婚したら生活できない」「旦那の浮気くらいは目をつぶれ」だのという「ドミナント・ストーリー」を展開して,クライエントの「オルタナティヴ・ストーリー」が育つのを防ぐ。なので,ホワイトは,「もう一つの」オルタナティヴなストーリーを提供しようと画策するわけであるが,まあ,詳しくは,ホワイトの本なり,今度でる(いまだ仮題の)「タカハシヤマキ本」を読んでほしいのであるが。

で,とても不思議なのだ。どうして,為政者は,「オルタナティヴ・ストーリー」を語らないのだろうか? あまり政治的な発言はしたくはないのだが,なんかあまりにも不思議なので書いてしまう。
原発に各国でNOと発言が出ており,国内でもデモが行われている。ケーサツ発表よりも多くの人が,デモに参加している。でも,政治家の発言をみると,原発については(一部に真摯に取り組んでいる人たちもいるが),態度保留というよりも,推進気味な方が多いような印象を受ける。「原発がないと電気が」などと言う。「コストが安いから」などとも言う。コストって,原発のある自治体への税金投入まで入れてなお,コスト安いのだろうか? 今回の補償額や実被害や風評被害まで積算しているのだろうか? もう起きないって言えないだろう? 福島もひどい状況であるが,もんじゅの状況も悲劇的だ(もんじゅはひどい。福井のひとは匕首を喉に突きつけられている状況である)。このあたりのコストも計算してくれているのだろうか? 入れていないとしたら暢気だ。原発再開を諦めた,いろいろと問題行動の多いイタリアの首相よりも暢気って,どういうことよ? ふつう,いくら暢気だって,原発は段階的に廃炉ね,くらいなところに落ち着きそうなものだ。でも,フクシマを抱えるこの国の政治家の先生は,ドミナント・ストーリーに拘泥する。
で,そもそも思うのだが,「ドミナント・ストーリー」しか語らないのは,もうやめにしないかということである。何も原発だけではない。この状況下において,「ドミナント・ストーリー」しか語らないのは,政治家としてどうなのだろう? 何かしたいことがあって政治家をやっていると思うのだが(そう思いたいのだが),なら,ふつう,「もう一つのストーリー」を語るものじゃないだろうか。いや,これは硬直化している私たちにとっての問題だろう。「オルタナティヴ」を語れ。語ろう。語ることにしか明日はこない。よく眺めれば,希望はまだある。
 

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