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2009年5月21日木曜日

よい文章ということ

 
よい文章というのは何なのだろうと、時に考える。
いつもいつも考えているわけではないのは、私が専門書を作っており、さほど文章の巧拙に関心がないからかもしれない。とても素晴らしい文章でなくても、専門書は売れる。よい文章のほうがやはり売れるけれど、読みにくいような文章であっても、まずは内容次第で売れていく。これは専門書だけではなくて、文芸書以外であれば、まあ、読みやすい、読みにくいなどはあるにせよ、及第点がとれればいいのであろう。よって、「よい文章とは何か」などと昭和の作家みたいに頭を抱え込むことはない。

とはいえ、時折、「よい文章」について考えてしまうことがある。
一人で本を作って、その本の裏表紙に宣伝文句などを作ったりするとき。もちろん、なるべく「よい文章」にしたいとは思う。思うけれど、なかなかうまくはいかない。
あるいは、書いた原稿を読むとき。打ちのめされるような「よい文章」を読んだりすることも時にある。そういうときに、「よい文章って何だ?」と考えてしまうのである。

今までに1,000人を超える方々の原稿を読んできた(こないだ1,000までは数えてみたのだ)。この数字は私くらいのキャリアの編集者では、けっこう多い数字だと思う。雑誌をやっていたのが大きいのだが、とにかく、多くの方々の文章を読んでも、「よい文章」に出会っても、「よい文章」というのがよくわからないままである。
文章とは総体である。ある一文がうまくても、それらがつながって出来上がっている文章がまずければ、どうしようもない。当然、文章の集まりである「論文」だとか、「書籍」だとかが箸にも棒にもかからなければ、どうしようもない。
とはいえ、一文にこそ、私たちは感動する。一文に感動しているのだか、一文一文をつないで出てきた、その一文に感動するのだろうか。その辺りもよくわからない。
そもそも「文章、うまいなあ」というとき、何を指しているのだろうか。私の言う「よい文章」と、だれかの言う「よい文章」はどこまで一致するのだろう。それは言語化できるものなのだろうか。
そして、「よい文章」はトレーニングをすれば身につくものなのだろうか。才能のほうが大きいのだろうか。
そんなことを悩んでしまう。
私はぱっさかぱっさか結論を出しては物事を進めてしまう性向なのであるが(よく「数日考えさせてください」といわれるが、最初は体のいい断り文句なのかと思っていた。私は15分くらいで考えはまとまるので…思い込みが強いだけかもしれぬが)、この「よい文章とは何か」ということに関しては、けっこう長い間──15年くらいは──考えている。
しかし、よくわからない。この記事に着手してはみたものの、まったく文章は進まない。

ある程度の知的レベルがあれば、たいていちゃんとした文章は書ける。苦手意識もあるかもしれないが、それは時間がかかるところが苦手だと認識しているだけで、質的にはそう変わらない。もちろん中には知的レベルは高いのに壊滅的に文章が下手という人もいることはいるが、それは相当に稀である。多くの人は、伝達という意味ではこれで何ら問題はない。その人たちの生き様が、よい文章を作ることがある。私が言う「交通事故に気をつけて」と、救命医の言う「交通事故に気をつけて」の重みは違う。それがよい文書につながる。

「いいセンスしている」という人は、50人に1人くらいはいるような気がする。破綻のない文章が書け、そのうえで書くツボを知っている。比喩なども上手で、読んでいて飽きないし、疲れない。長めの文章でも集中して一読できる。しかし、この人たちは嘘はつけない。自分の知っていることや信じていることしか書けない。もし、そうでないことを書くと、途端にぼろが出る。そんな気がする。

500人に1人くらいいるのが、ものすごい文章の達人である。破綻のない文章が書け、そのうえで書くツボを知っている。文章にはリズムがある。そして、文脈にもリズムがある。状況の説明や理論、感情、話し言葉など、これ以上にないというタイミングでさしはさまれる。ある一文が他の一文と的確に結び合っている。比喩なども極上で、読んでいて、わくわくする。そして、読んでいると、無我になっていく。そんな文章を書く人がいる。
そして、嘘も上手である。というと語弊があるかもしれない。なにも、この文章家たちが嘘をつきまくっているというわけではない。でも、これだけの文章能力があれば、信じてもない、思ってもないことでも、さも信じているかのように書くことができるだろう。

とはいえ、好みがある。美術鑑定人などと同様、経験知があればあるほど、よい文章を見分けることができるだろうが、やはり好みがある。
結局、よい文章とは何か、という問いには答えがないままである。

お付き合いした1000人のなかで、「ああ、この人の文章はベラボウにうまい」と感銘を受けたのは数人おられる。小説でも書けばいいのに、などと思ってしまう。
もちろん、私の好みである。私は、多面的に書かれた文章が好きである。感情や論理、形而上や形而下、聖と俗などを行きつ戻りつあるような文章が好きなのである。


衣斐哲臣先生をご存知だろうか?

衣斐先生の文章に出会ったのは、「システム論からみた学校臨床」が最初だったと思う。

システム論からみた学校臨床システム論からみた学校臨床
吉川 悟

金剛出版 1999-09
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この本は、吉川悟先生による編集ものの本なのだが、そこに衣斐先生はケース論文を書かれていた。
このとき、私は「ああ、この人の文章はベラボウにうまいなあ」と非常に関心をしてしまったのである。

このシリーズの第二弾、

システム論からみた思春期・青年期の困難事例システム論からみた思春期・青年期の困難事例
吉川 悟 村上 雅彦

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にも書いていただいた。
やはりいいものだった。
もちろん、好みもあるのだが、とてもバランスのいい文章を書くのである。センスがあるのだと思う。

以来、あちこちで依頼をしたり、メールをしたりし、昨年、衣斐先生は、1冊の本を出した。

子ども相談・資源活用のワザ―児童福祉と家族支援のための心理臨床子ども相談・資源活用のワザ―児童福祉と家族支援のための心理臨床
衣斐 哲臣

金剛出版 2008-12
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これも実にいい本である。
文章もいい。内容もいい。オススメです。

 

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